武将・大名
豊臣秀頼
とよとみひでより
- 生年
- 1593年8月29日
- 没年
- 1615年6月4日
豊臣家の後継者
豊臣秀頼は、文禄2年(1593)に豊臣秀吉と淀殿の子として大坂城で生まれました。幼名を拾といい、先に生まれた兄・鶴松が幼くして亡くなっていたため、秀吉の後継者として大きな期待を集めます。秀頼の誕生後、関白だった豊臣秀次は失脚し、豊臣家の後継体制は秀頼を中心に組み直されました。
慶長3年(1598)に秀吉が亡くなった時、秀頼はまだ6歳でした。五大老・五奉行らが政権を支えることになりましたが、徳川家康が次第に主導権を握ります。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、豊臣家の領地は摂津・河内・和泉を中心とする約65万石へ縮小され、秀頼は淀殿とともに大坂城を本拠としました。
徳川政権下の豊臣家
慶長8年(1603)、家康が征夷大将軍となる一方、秀頼は豊臣家の当主として高い官位を得て、寺社の再建にも取り組みました。慶長16年(1611)には京都の二条城で家康と会見します。成長した秀頼と豊臣家は一定の権威を保ち続け、徳川政権にとって無視できない存在でした。
慶長19年(1614)、秀頼が再建した京都・方広寺大仏殿の鐘銘をめぐる対立などから、大坂冬の陣が始まります。豊臣方は全国から集まった浪人を大坂城に迎えて戦い、和議が成立しましたが、城の堀は埋められました。
大坂夏の陣と豊臣宗家の滅亡
翌慶長20年(1615)の大坂夏の陣では城外で徳川軍と決戦し、敗れて大坂城は炎上します。秀頼は淀殿らとともに城内で自害し、23歳で亡くなりました。これにより豊臣宗家は滅亡し、徳川氏の全国支配が確立します。秀頼には薩摩へ逃れたという伝説も生まれましたが、大坂城跡には秀頼と淀殿らの最期を伝える碑が残り、その短い生涯は戦国時代の終わりを象徴しています。
この人物に関する歴史
全3件
豊臣秀頼が生まれる
1593年8月29日(文禄2年8月3日)、豊臣秀頼は秀吉と淀殿の子として大坂城で生まれました。幼名は拾です。秀吉と淀殿の最初の男子・鶴松は幼くして亡くなっており、拾の誕生は秀吉にとって待望の後継者誕生でした。 しかし、この時点で豊臣政権には…
千姫が豊臣秀頼に輿入れする
1603年9月3日(慶長8年7月28日)、徳川秀忠の長女・千姫と豊臣秀頼が大坂城で婚礼を挙げました。千姫は7歳、秀頼は11歳でした。二人の婚約は豊臣秀吉の生前に決められたもので、秀吉の死後も徳川家康によって実行されました。 この年、家康は征…
徳川家康が方広寺大仏殿の供養延期を命じる
1614年8月31日(慶長19年7月26日)、徳川家康は、京都の方広寺大仏殿で予定されていた開眼供養と梵鐘供養の延期を命じました。大仏殿は豊臣秀頼が再建したもので、豊臣方は片桐且元を駿府へ派遣し、家康の了承を得ながら供養の準備を進めていまし…