武将・大名
尼子義久
あまごよしひさ
- 生年
- 1540年
- 没年
- 1610年10月14日(慶長15年8月28日)
最盛期の後を継いだ尼子氏当主
尼子義久は、出雲の月山富田城を本拠とした戦国大名・尼子氏の当主です。父・晴久が永禄3年(1560)に急死したため、20歳ほどで家督を継ぎました。義久の「義」は、第13代将軍・足利義輝から与えられたものです。
祖父・経久と父・晴久の時代、尼子氏は山陰・山陽に大きな勢力を築きました。しかし義久が継いだ頃には、大内氏を破って中国地方で台頭した毛利元就が石見・出雲へ進出していました。広大な領国を維持するための戦いは、若い義久に引き継がれます。
毛利氏による出雲包囲
永禄5年(1562)頃から、毛利氏は本格的な出雲攻略を進めました。尼子氏は伯耆や出雲各地で抵抗しましたが、毛利方は月山富田城をただちに力攻めせず、周辺の城と交通路を一つずつ押さえていきます。
永禄6年(1563)には、月山富田城と日本海側を結ぶ白鹿城が激戦の末に陥落しました。その後も毛利氏は中海方面を封鎖し、伯耆では兵糧の搬入を止めます。難攻不落の山城を、補給と支援から切り離して孤立させる戦略でした。
月山富田城の開城
包囲が長期化すると、月山富田城では兵糧が不足し、投降者や脱走者が相次ぎました。永禄9年(1566)11月、義久は弟の倫久・秀久らとともに毛利氏へ降伏し、城を退去します。これによって、尼子氏は出雲を支配する戦国大名として滅亡しました。
義久の降伏は、単なる臆病さによるものではありません。抵抗を続ければ城内の家臣や住民にさらに犠牲が出る状況で、兄弟や将兵の命を守るための決断でもありました。月山富田城は攻撃で落城したのではなく、徹底した包囲の末に開城したのです。
滅亡後も生き続けた当主
降伏後の義久は毛利氏の監視下に置かれましたが、処刑されず、その後も長く生きました。一方、山中幸盛ら旧臣は尼子勝久を擁立し、尼子氏再興を掲げて毛利氏との戦いを続けます。義久自身は、この再興戦に当主として加わりませんでした。
慶長15年(1610)に義久が亡くなるまで、中国地方の支配者は毛利氏から豊臣氏、徳川氏へと移り変わりました。義久は滅亡した大名家の当主でありながら、戦国の終わりまで生きた人物です。その生涯は、戦って死ぬことだけではない敗者の選択と、大名家の存続のかたちを伝えています。
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