武将・大名
荒木又右衛門
あらきまたえもん
- 生年
- 1599年
- 没年
- 1638年10月5日(寛永15年8月28日)
伊賀に生まれた武士・剣術家
荒木又右衛門は、江戸時代初期の武士・剣術家です。伊賀に生まれたとされ、大和郡山藩主・松平忠明に仕えました。のちに岡山藩士・渡辺数馬の姉と結婚し、数馬の義兄となります。
又右衛門は新陰流の達人として知られますが、柳生宗矩や柳生十兵衛から直接剣術を学んだという話には、後世の脚色が含まれる可能性があります。現在の人物像には、同時代の記録から確認できる武士としての姿と、講談・芝居で作られた剣豪像が重なっています。
仇討ちへ至った岡山藩の事件
寛永7年(1630)、岡山藩士の河合又五郎が、同藩士で渡辺数馬の弟・源太夫を殺害しました。又五郎は江戸へ逃れ、旗本のもとで保護されたため、身柄の扱いをめぐって岡山藩と幕府側の有力者との対立が生じます。
岡山藩主・池田忠雄は又五郎の引き渡しを求めましたが、決着しないまま亡くなりました。数馬は弟の仇を討つため又五郎を追い、又右衛門も義弟を助けることを決めます。個人同士の争いから始まった事件は、大名家と旗本の面目が絡む問題へ広がっていました。
鍵屋の辻の決闘
寛永11年(1634)11月7日、数馬と又右衛門らは、伊賀上野城下の西端にある鍵屋の辻で又五郎一行を待ち受けました。奈良街道と小田方面への道が交わる場所で戦いとなり、数馬は又五郎を討ち取って仇討ちを果たします。
この事件は伊賀越仇討と呼ばれ、曽我兄弟の仇討ち、赤穂事件と並ぶ「日本三大仇討ち」の一つとして広まりました。又右衛門が36人を斬ったという「三十六人斬り」は、後世の講談などで誇張された伝説で、実際の戦いの規模とは分けて考える必要があります。
史実から剣豪伝説へ
仇討ちの後、又右衛門と数馬は関係する大名家のもとに預けられました。又右衛門は寛永15年(1638)、鳥取で亡くなります。その最期についても病死、毒殺などさまざまな説がありますが、確かなことは分かっていません。
鍵屋の辻の事件は、歌舞伎、講談、小説、映画で繰り返し描かれました。その過程で又右衛門は、義理を重んじる無敵の剣豪として理想化されていきます。史実の又右衛門を知るには、仇討ちの記録と、後世に育った物語を区別して見ることが大切です。現在も鍵屋の辻は三重県指定史跡として、その舞台を伝えています。
別名
- 実名 荒木保知
この人物に関する歴史
全1件
荒木又右衛門が亡くなる
1638年10月5日(寛永15年8月28日)、剣術家の荒木又右衛門が亡くなったとされています。又右衛門は、1634年に伊賀上野の鍵屋の辻で、義弟の渡辺数馬が河合又五郎を討つのを助太刀した人物です。この仇討ちは後に講談や歌舞伎で脚色され、又右…