武将・大名
足利義昭
あしかがよしあき
- 生年
- 1537年12月5日(天文6年11月3日)
- 没年
- 1597年10月9日(慶長2年8月28日)
僧侶から将軍候補へ
足利義昭は、室町幕府第12代将軍・足利義晴の子で、第13代将軍・義輝の弟です。幼くして奈良の興福寺一乗院へ入り、覚慶と名乗りました。本来は僧侶として生きる立場でしたが、永禄8年(1565)の永禄の変で兄・義輝が殺害されると、将軍家再興の中心人物となります。
覚慶は興福寺を脱出し、近江や若狭を経て越前の朝倉義景を頼りました。還俗して義秋、のちに義昭と改名し、各地の大名へ上洛と幕府再興への協力を求めます。朝倉氏が動かなかったため、義昭は明智光秀や細川藤孝らを通じて織田信長と結びました。
信長に擁立された第15代将軍
永禄11年(1568)、義昭は信長の軍事力に支えられて京都へ入り、室町幕府第15代将軍となりました。信長は義昭のために壮大な二条の御所を築き、義昭は将軍として諸大名の紛争調停や役職の任命、寺社への命令などを行いました。
当初の両者は、義昭の権威と信長の軍事力を組み合わせる協力関係にありました。しかし、幕府の秩序を再建しようとする義昭と、自らの方針で畿内支配を進める信長の利害はしだいに衝突します。信長が義昭の政治行動を制限する意見書を出すなど、両者の緊張は深まりました。
信長との決裂と京都追放
元亀4年(1573)、義昭は信長に対して挙兵しました。二条の御所での対立はいったん和睦しましたが、義昭は再び宇治の槇島城へ入り抵抗します。信長軍に包囲された義昭は降伏し、京都から追放されました。一般には、この京都追放をもって室町幕府の滅亡とします。
義昭と信長の争いでは、京都の上京が焼かれ、多くの住民が被害を受けました。将軍と有力武将の権力争いは、武家だけでなく都市とそこに暮らす人々にも大きな犠牲を強いたのです。
鞆から続けた政治活動
京都を離れた義昭は、河内などを経て備後国の鞆へ移り、毛利氏の庇護を受けました。義昭は追放後も将軍職を保持し、毛利氏や本願寺、各地の大名へ御内書を送り、信長に対抗する働きかけを続けます。このため、追放後の政権を「鞆幕府」と捉える見方もあります。
信長の死後、義昭は豊臣秀吉と和解し、天正16年(1588)に将軍職を辞しました。慶長2年(1597)に大坂で亡くなります。義昭は幕府を滅ぼした敗者としてだけでなく、将軍の権威と文書による政治を最後まで使い続けた室町幕府最後の将軍でした。
別名
- 旧名 足利義秋
- 法名 覚慶
この人物に関する歴史
全1件
この人物に関連するおすすめ

足利将軍たちの戦国乱世 応仁の乱後、七代の奮闘 (中公新書)
足利将軍家を支える重臣たちの争いに端を発した応仁の乱。その終結後、将軍家は弱体化し、群雄割拠の戦国時代に突入する。だが、幕府はすぐに滅亡したわけではない。九代義尚から十五代義昭まで、将軍は百年にわたり権威を保持し、影響力を行使したが、その理由は何か――。歴代将軍の生涯と事績を丹念にたどり、各地の戦国大名との関係を解明。「無力」「傀儡」というイメージを裏切る、将軍たちの生き残りをかけた戦いを描く。