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武将・大名

足利義澄

あしかがよしずみ

生年
1481年1月15日(文明12年12月15日)
没年
1511年9月6日(永正8年8月14日)

堀越公方の家に生まれた将軍候補

足利義澄は、初代堀越公方・足利政知の子で、室町幕府第8代将軍・足利義政の甥にあたります。幼名は清晃といい、京都の天龍寺香厳院に入って僧となりました。本来は将軍家の直系ではありませんでしたが、応仁の乱後も続く後継争いのなかで将軍候補に選ばれます。

明応2年(1493)、管領・細川政元は河内へ出陣していた第10代将軍・足利義材を排除する政変を起こしました。いわゆる明応の政変です。清晃は還俗して義遐、のちに義高、義澄と名乗り、翌年に第11代将軍となりました。

細川政元と並び立つ幕府

義澄の擁立を主導した細川政元は、幕府の実権を強く握りました。そのため義澄は政元の意向に従うだけの将軍と見られがちです。しかし義澄も、御教書の発給、守護大名との交渉、寺社や朝廷との関係づくりを行い、将軍として独自の権威を築こうとしました。

一方、追放された義材は越中へ逃れ、のちに義尹、義稙と改名して各地の大名へ支援を求めました。幕府には義澄を支持する勢力と前将軍を支持する勢力が並び立ち、中央の対立が地方政治にも波及します。一人の将軍を頂点とする秩序そのものが揺らいだ時代でした。

永正の錯乱と京都からの退去

永正4年(1507)、細川政元が養子たちの後継争いのなかで暗殺されると、細川氏の内紛である永正の錯乱が始まりました。政元という最大の後ろ盾を失った義澄の政権は不安定になります。

翌年、大内義興が前将軍・義稙を奉じて大軍で上洛すると、義澄は京都を離れて近江へ逃れました。義稙は将軍職へ復帰し、義澄は近江の六角氏らの支援を受けながら京都への復帰を目指します。将軍の地位が有力大名の軍事力に左右される状況は、義澄だけでなく、その後の室町幕府にも続きました。

二つの将軍家へつながる子どもたち

永正8年(1511)、義澄は京都奪還の戦いを前に近江で亡くなりました。32歳でした。同年の船岡山合戦では義澄方が敗れ、義稙の政権が維持されます。

義澄の子・義晴はのちに第12代将軍となり、その系統から義輝と義昭が出ました。もう一人の子・義維の系統は堺公方や阿波公方と呼ばれる政治勢力につながります。義澄の時代に表面化した将軍家の分裂は、その後も長く幕府政治を揺さぶりました。義澄の生涯は、将軍の権威と大名の軍事力が分離していく戦国初期の姿を映しています。

この人物に関する歴史

全1件

命日

足利義澄が亡くなる

1511年9月6日(永正8年8月14日)、室町幕府第11代将軍だった足利義澄が、近江国の水茎岡山城で亡くなりました。義澄は1493年の明応の政変で、細川政元らが10代将軍・足利義材を追放した後、その後継者として擁立された人物です。 しかし、…

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