武将・大名
浅井久政
あざいひさまさ
- 生年
- 1526年
- 没年
- 1573年9月23日(天正元年8月27日)
六角氏の圧力を受けた浅井氏2代目
浅井久政は、北近江を支配した浅井氏の2代目当主です。父・亮政の死後に家督を継ぎましたが、浅井氏の勢力はまだ安定しておらず、南近江の六角氏や、旧主にあたる京極氏との関係を調整しながら領国を維持する必要がありました。
久政は六角氏と対立を続けるのではなく、その影響を受け入れて家の存続を図りました。嫡男・新九郎は六角義賢の一字を受けて「賢政」と名乗ったとされ、浅井氏が六角氏へ従属的な立場に置かれていたことを示す逸話として知られています。
長政への家督移譲
永禄3年(1560)前後、六角氏への従属に不満を持つ家臣たちは賢政を支持し、久政を隠居させたと伝わります。賢政はのちに長政と改名し、野良田の戦いで六角軍を破って浅井氏の自立を進めました。ただし、久政から長政への権力移行の詳しい過程は、後世の軍記に基づく部分も多く、単純な「家臣による当主追放」としてだけでは捉えきれません。
隠居後の久政も小谷城内に居所を持ち、浅井氏の政治や信仰に関わり続けました。久政名義の所領宛行状が残るほか、永禄9年(1566)には竹生島宝厳寺の蓮華会で頭役を務めた記録があり、家督を譲った後も一定の影響力を保っていたことがうかがえます。
小谷城で迎えた最期
元亀元年(1570)、長政が織田信長と敵対すると、久政も浅井方として小谷城にとどまりました。浅井・朝倉勢は姉川の戦い後も抵抗を続けましたが、織田軍に周辺の支城と交通路を押さえられ、次第に追い詰められていきます。
天正元年(1573)、朝倉義景を滅ぼした信長が小谷城へ攻め戻ると、城内は分断されました。久政は長政に先立って自害し、その後、長政も妻の市と娘たちを城外へ送り出して自害します。久政と長政の死によって、浅井氏三代の北近江支配は終わりました。
弱い当主像を越えて
久政は、六角氏に屈した消極的な当主として描かれることがあります。しかし、久政の発給文書や小谷城の整備、地域の寺社との関わりを見ると、戦乱のなかで家と領国を維持しようとした領主としての姿も浮かびます。
長政による自立と勢力拡大は、久政の時代に保たれた領国や家臣団を土台としていました。久政の治世は、父・亮政の急速な台頭と子・長政の劇的な生涯をつなぐ、浅井氏形成期の重要な段階だったといえます。
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