武将・大名

伊達綱宗

だてつなむね

生年
1640年9月23日(寛永17年8月8日)
没年
1711年

わずか2年で隠居した仙台藩主

伊達綱宗は、仙台藩2代藩主・伊達忠宗の子として寛永17年(1640)に生まれた大名です。兄たちの早世によって世子となり、4代将軍徳川家綱から一字を受けて綱宗と名乗りました。万治元年(1658)に忠宗が亡くなると、19歳で伊達家を継ぎ、仙台藩3代藩主となります。

しかし万治3年(1660)、幕府は綱宗に隠居を命じました。家督は数え2歳の嫡男・亀千代、のちの伊達綱村へ移ります。幕府側の記録は酒色による不行跡を理由に挙げますが、伊達家側の記録は経緯を詳しく語らず、処分の政治的背景には不明な点が残ります。遊女・高尾太夫をめぐる殺害譚は歌舞伎や読本などで広まった後世の物語であり、そのまま史実とはみなせません。

幼君の相続と伊達騒動

綱宗の退隠後、仙台藩では一門の伊達宗勝らが幼い綱村を補佐する後見政治が始まりました。所領争いと家中対立はやがて幕府の評定へ持ち込まれ、寛文11年(1671)の原田甲斐による刃傷事件へ発展します。これが後に「伊達騒動」と呼ばれる事件です。綱宗自身が藩政へ復帰することはありませんでしたが、その突然の隠居は大藩の統治を不安定にする出発点となりました。

半世紀に及ぶ芸術生活

綱宗は江戸の品川大井屋敷で約50年を過ごし、絵画、和歌、能、刀剣や工芸などに取り組みました。仙台市博物館に残る花鳥図屏風は、狩野探幽の画風を学びながらも、大胆な枝ぶりを見せる大画面作品です。政治から退けられた後半生を単なる放蕩の延長と見ることはできません。

正徳元年(1711)、綱宗は72歳で亡くなりました。短い藩主在任、伊達騒動の前史、そして長い文化活動という三つの側面を持つ人物です。高尾太夫伝説で知られる一方、現存作品と藩政史料を通して実像を確かめる必要があります。

この人物に関する歴史

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誕生日

伊達綱宗が生まれる

1640年9月23日(寛永17年8月8日)、伊達綱宗は仙台藩2代藩主・伊達忠宗の六男として生まれました。幼名は巳之助といいます。生まれた時点では家督から遠い立場でしたが、兄たちが相次いで早世したため世子となり、将軍徳川家綱から一字を受けて綱…

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