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武将・大名

支倉常長

はせくらつねなが

伊達政宗に仕えた仙台藩士

支倉常長は、元亀元年(1570)ごろに生まれた仙台藩士です。支倉常成の子で、伯父・時正の養子になったとされ、伊達政宗のもとで知行を与えられました。若いころの活動には不明な点が残りますが、慶長遣欧使節の代表に選ばれたことで、その名が日本とヨーロッパ双方の記録に残りました。

当時、政宗はスペイン領メキシコとの通商と宣教師の派遣を求めていました。フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロの構想と、太平洋を横断できる船を必要としていたスペイン側の事情も重なり、仙台藩は大型船を建造して使節を派遣します。

太平洋と大西洋を越えた使節

慶長18年(1613)、常長ら180人余りはサン・フアン・バウティスタ号で月浦を出航しました。太平洋を渡ってメキシコのアカプルコへ到着し、一部の使節は陸路で大西洋岸へ移動します。常長ら約30人はスペイン艦隊に乗り、大西洋を越えてヨーロッパへ向かいました。

常長はスペインで洗礼を受け、フェリペ3世に政宗の書状を届けました。さらにローマへ進み、元和元年(1615)に教皇パウロ5世へ謁見し、ローマ市公民権も与えられます。しかし日本では徳川幕府がキリスト教禁制を強めており、スペイン側は通商交渉に慎重でした。使節が求めた協定は実現しませんでした。

帰国後と世界に残る資料

常長はメキシコ、マニラを経て、元和6年(1620)に7年ぶりに帰国しました。すでに国内ではキリシタン弾圧が厳しく、海外で得た成果を政策へ結びつけることはできませんでした。帰国から約2年後に亡くなったとされますが、最期や信仰をめぐっては断定できない点もあります。

常長が持ち帰った肖像画、ローマ市公民権証書、祭服などは仙台藩に没収された後も保管され、現在は国宝「慶長遣欧使節関係資料」として伝わります。このうち支倉常長像など3点はユネスコ「世界の記憶」に登録されました。外交交渉は目的を達成しなかったものの、使節の旅と資料は近世初期の日本が太平洋・大西洋世界へ接続した具体的な記録です。

この人物に関する歴史

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出来事

支倉常長が日本へ帰国する

1620年9月20日(元和6年8月24日)、慶長遣欧使節を率いた支倉常長が7年ぶりに日本へ帰国しました。常長は仙台藩主・伊達政宗の命を受け、1613年に月浦からサン・フアン・バウティスタ号で出航しました。使節には宣教師ルイス・ソテロら約18…

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