武将・大名
堀尾忠氏
ほりおただうじ
- 生年
- 1578年
- 没年
- 1604年8月28日(慶長9年8月4日)
堀尾忠氏は、豊臣政権から徳川政権への転換期に、堀尾家の当主として出雲・隠岐を治めた大名です。父は豊臣秀吉に仕えた堀尾吉晴で、忠氏も若くして豊臣家に仕えました。ただし、慶長3年(1598)以前の忠氏の活動は同時代史料が少なく、詳しく分かっていない部分が多くあります。 秀吉が亡くなった後、忠氏は徳川家康と豊臣政権の奉行たちとの対立が深まるなかで、早くから家康支持を表明しました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは父とともに東軍に属し、その戦功によって遠江浜松から出雲・隠岐24万石へ加増転封されます。忠氏は月山富田城へ入り、堀尾家の新しい領国支配を始めました。 出雲入国後は家臣への知行の割り当てや国内検地などを進め、領国を統治する仕組みを整えました。月山富田城は山城で、広い領国を治める政治・交通の拠点としては不便だったため、新しい城と城下町を築く構想も持たれます。慶長8年(1603)には従四位下・出雲守となり、これを機に文書へ記す花押も改めました。 しかし慶長9年(1604)、忠氏は新城建設へ本格的に着手する前に若くして亡くなりました。跡を継いだ子の忠晴はまだ幼く、父の吉晴が後見人となります。その後、宍道湖畔で松江城の築城が始まり、城下町松江が整備されました。現在の松江を築いた人物として吉晴がよく知られますが、その前段階で出雲・隠岐の統治を進め、城地移転を計画した忠氏も、松江開府へつながる重要な役割を担った人物です。
この人物に関する歴史
全1件