その他
石川五右衛門
いしかわごえもん
- 没年
- 1594年10月8日(文禄3年8月24日)
記録の少ない安土桃山時代の盗賊
石川五右衛門は、安土桃山時代に京都周辺で活動し、豊臣政権下で処刑されたとみられる盗賊です。広く知られた人物である一方、生年、出身地、家族関係、前半生を同時代の史料から確かめることはほとんどできません。伊賀の忍者だった、百地三太夫に忍術を学んだといった話は、後世に発達した伝説です。
公家の日記『言経卿記』には、文禄3年(1594)8月24日、盗人やその一類が京都で釜煎りにされたという記録があります。ただし、そこに五右衛門の名は記されていません。一方、日本について記したアビラ・ヒロンの『日本王国記』にペドロ・モレホンが加えた注釈には、「Ixicavagoyemon」と読める名を持つ盗賊が捕らえられ、家族や仲間とともに煮殺されたという内容があります。こうした記録が、実在を考える重要な手がかりです。
処刑の日付と場所をめぐる違い
五右衛門の処刑は、一般に文禄3年8月24日、現在の暦で1594年10月8日のこととされ、京都の河原で釜煎りの刑に処されたと伝わります。しかし、史料によって日付や処刑場所、処刑された人数の記述は一致しません。12月に処刑されたとする記録もあり、三条河原と七条河原のどちらであったかも含めて確定していません。
釜の中で子を頭上に持ち上げたという有名な場面にも異なる型があります。子を最後まで助けようとした話と、熱さに耐えるため足の下へ敷いたという話があり、いずれも後代の作品によって広まった要素です。限られた同時代記録と、のちに作られた物語を分けて考える必要があります。
義賊と秀吉の敵という物語
江戸時代になると、五右衛門は浄瑠璃や歌舞伎、実録物の人気人物となりました。豊臣秀吉の伏見城へ忍び込み、千鳥の香炉を盗もうとした、権力者から盗んで貧しい人々へ分け与えたといった物語が付け加えられます。庶民の側に立って天下人へ挑む「義賊」の姿は、史実として確認されたものではありません。
歌舞伎『楼門五三桐』では、南禅寺山門の上から満開の桜を眺める五右衛門が描かれます。有名な「絶景かな」の場面は、この作品世界で形づくられたものです。史実の五右衛門が南禅寺山門に上ったわけではなく、現在の三門も五右衛門の処刑後に再建されました。
実像より大きくなった文化的な人物像
五右衛門について確実に語れる事柄は多くありません。それでも、その名は歌舞伎、講談、小説、映画、漫画、ゲームへ受け継がれ、時代ごとに異なる反権力の英雄像をまとってきました。釜で下から火を焚く風呂を「五右衛門風呂」と呼ぶ俗称も、処刑伝説に由来します。
石川五右衛門は、記録に残る盗賊であると同時に、後世の人々が願望や批判精神を重ねてきた物語上の人物でもあります。史料上の短い痕跡と、数百年にわたり育てられた伝説との差そのものが、この人物の大きな特徴です。
この人物に関する歴史
全1件
石川五右衛門が処刑される
1594年10月8日(文禄3年8月24日)、石川五右衛門が京都で処刑されたとされています。公家・山科言経の日記『言経卿記』のこの日付の条には、盗賊の一団が捕らえられ、京都で釜煎りなどの刑に処されたことが記されています。五右衛門の実像を考える…