武将・大名
伊東義祐
いとうよしすけ
- 生年
- 1512年
- 没年
- 1585年8月29日(天正13年8月5日)
日向伊東氏の最盛期を築く
伊東義祐は、都於郡城を本拠として日向国を治めた戦国大名です。はじめ祐清と名乗り、天文6年(1537)に室町幕府将軍・足利義晴から「義」の一字を与えられて義祐と改名しました。将軍から偏諱を受けたことは、日向の地域権力である伊東氏が京都の政治秩序とも結びついていたことを示します。
義祐は一族や家臣を各地の城へ配置し、日向国内で勢力を拡大しました。とりわけ県南部の飫肥をめぐって島津氏と長く争い、永禄年間には飫肥城を確保します。最盛期の伊東氏は日向の大半に支配を及ぼし、都於郡には寺社や文化人が集まったと伝わります。義祐は仏教への信仰が厚く、京都風の文化を領国へ取り入れた大名でもありました。
木崎原敗戦と豊後落ち
元亀3年(1572)、伊東軍は真幸院へ進出しましたが、木崎原の戦いで島津義弘の軍に大敗しました。この一戦だけで伊東氏の支配が直ちに崩れたわけではありませんが、多くの有力家臣を失ったことは大きな打撃となります。その後、島津氏の圧力と家臣団の離反が重なり、伊東氏は領国を維持できなくなりました。
天正5年(1577)、義祐は一族や家臣を伴って都於郡を離れ、豊後国の大友宗麟を頼ります。この逃避行は「豊後落ち」と呼ばれ、飢えや寒さのなかで多くの同行者を失う厳しいものでした。翌年、大友軍は伊東氏の旧領回復も視野に日向へ進みますが、耳川の戦いで島津軍に敗れ、義祐が日向へ戻る道は閉ざされました。
流浪と子の飫肥回復
耳川の敗戦後、義祐らは豊後を離れ、伊予など各地を流浪しました。義祐の子・祐兵はのちに羽柴秀吉へ仕え、九州平定に参加します。秀吉の九州平定後、祐兵は飫肥の地を与えられ、伊東氏は近世大名として日向へ戻りました。
義祐は天正13年(1585)に亡くなったため、子による飫肥回復を見ることはありませんでした。日向の大半を支配した最盛期と、木崎原敗戦後の領国喪失を経験した生涯は、戦国大名の支配が家臣団、周辺勢力、中央政権との関係によって大きく変化したことを示しています。
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