武将・大名

朽木元綱

くつきもとつな

生年
1549年
没年
1632年10月12日(寛永9年8月29日)

京都と若狭を結ぶ朽木谷の領主

朽木元綱は、近江国高島郡の朽木谷を本拠とした領主です。天文18年(1549)に生まれ、幼くして家督を継ぎました。朽木氏は近江源氏佐々木氏の一族で、京都から若狭・越前へ抜ける街道の要地を長く支配していました。大国を領する戦国大名ではありませんでしたが、人と物資が通る山間の道を押さえたことで、中央政治と深く関わります。

元綱の祖父・稙綱らは、政争で京都を追われた将軍足利義晴・義輝をたびたび朽木谷に迎えました。朽木には将軍が滞在した御所の跡が残り、朽木氏が室町幕府と結んだ特別な関係を伝えています。元綱も足利義昭に仕え、その後、京都へ進出した織田信長の勢力に入りました。

金ヶ崎から退く信長を通す

元亀元年(1570)、信長は越前の朝倉義景を攻めました。しかし、同盟者だった浅井長政が信長に背いたため、越前と近江の間で挟み撃ちになる危険が生じます。信長は金ヶ崎から軍を引き、朽木谷を通って京都へ戻る道を選びました。

このとき元綱が信長の領内通行を受け入れたことで、信長一行は朽木から大原を経て京都へ帰還できました。後世の文書には、元綱が兵を出して道案内と警護を行い、朽木市場で信長を休ませたという伝承も記されています。ただし、細部は事件から後に成立した記録に基づくため、慎重に見る必要があります。確かなのは、元綱が浅井氏の影響も受ける地域で信長を通し、その後も織田方で活動したことです。

信長・秀吉の時代を生き残る

元綱は信長のもとで近江や越前の戦いに関わり、本能寺の変後は豊臣秀吉に従いました。小牧・長久手の戦いや小田原攻めなどに参加し、朽木谷の所領を保ちます。中央の支配者が信長から秀吉へ交代しても、街道と地域社会を押さえる在地領主として役割を維持しました。

朽木氏の歩みは、大大名が領国を拡大する歴史とは異なります。限られた所領を守るには、周囲の浅井氏、朝倉氏、織田氏、豊臣氏との関係を状況に応じて選ばなければなりませんでした。元綱の長い生涯は、小領主が交通の要地と古い家格を利用しながら生き残る姿を示しています。

関ヶ原での転進と江戸時代の朽木氏

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、元綱は当初西軍に属しました。しかし本戦では、小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保らとともに西軍を離れ、東軍側へ転じます。事前に徳川方と通じていたかどうかは武将ごとに事情が異なり、元綱の判断も単純な「寝返り」の一語だけでは分かりません。

戦後、元綱は徳川家康から朽木谷の所領を認められ、幕府に仕える旗本となりました。のちに所領を息子たちへ分け、朽木氏の複数の家が江戸時代を通じて存続します。その一系はのちに福知山藩主となりました。元綱は寛永9年(1632)に亡くなり、室町幕府末期から江戸幕府成立後まで八十年以上を生きました。

信長の退路を支えた逸話で名を知られますが、元綱の本質は一度の功績だけにありません。京都と日本海側を結ぶ地域を守り、支配者が次々に交代するなかで家と所領を次代へ渡したことに、国人領主としての力量が表れています。

この人物に関する歴史

全1件

命日

朽木元綱が亡くなる

1632年10月12日(寛永9年8月29日)、朽木元綱が近江国朽木で亡くなりました。84歳でした。元綱は京都と若狭を結ぶ街道上の朽木谷を治め、室町幕府の将軍家と関わりを持った国人領主です。1570年には、越前から退却する織田信長一行の朽木越…

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