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武将・大名

松平直基

まつだいらなおもと

生年
1604年
没年
1648年10月1日(慶安元年8月15日)

結城秀康の子と結城松平家

松平直基は、慶長9年(1604)に結城秀康の子として生まれた大名です。祖父は徳川家康にあたります。父秀康は豊臣秀吉の養子、さらに結城晴朝の養子となった後、越前へ移って松平姓に復しました。直基は結城氏の祭祀と家名を受け継ぐ立場となり、その家系は結城松平家、大和守家などと呼ばれます。

寛永元年(1624)、越前勝山3万石を与えられて藩主となり、翌年には越前大野5万石へ移されました。大野では城と城下を受け継ぎ、領国経営にあたります。家康の孫であっても一地にとどまらず、幕府の都合に応じて要地へ移されたことが直基の経歴の特徴です。

大野から山形へ

寛永21年(1644)、直基は出羽山形15万石へ大幅に加増転封されました。山形では広い領内を統治するため大庄屋を置くなど、支配の仕組みを整えたとされます。山形城の正保城絵図は直基の時代の城郭と城下を伝えており、現在は国の重要文化財に指定されています。

越前から出羽への転封は、親藩・譜代大名を各地の要地へ配置する初期幕府の政策の一例です。直基は家格と石高を高めましたが、移封のたびに家臣団と行政組織を新しい領地へ適応させる必要がありました。

入部できなかった姫路城主

慶安元年(1648)、直基は西国支配の重要拠点である播磨姫路15万石への転封を命じられました。しかし姫路へ入る前に病で亡くなり、実際に姫路城で藩政を行うことはありませんでした。死去場所については江戸とする記述と赴任途中とする資料があり、説明が一致していません。

幼い嫡男・直矩が家督を継ぎましたが、幕府は翌年に越後村上へ移し、姫路には榊原忠次を入れました。直基の勝山・大野・山形・姫路という移封の連続は、大名家の領地が固定されたものではなく、幕府の全国統治のなかで再配置されたことをよく示しています。

この人物に関する歴史

全1件

命日

松平直基が亡くなる

1648年10月1日(慶安元年8月15日)、松平直基が亡くなりました。直基は結城秀康の子で、徳川家康の孫にあたります。越前勝山、大野を経て出羽山形15万石を治め、この年、西国の重要拠点である播磨姫路15万石への転封を命じられていました。 し…

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