武将・大名
水野勝成
みずのかつなり
- 生年
- 1564年9月20日(永禄7年8月15日)
- 没年
- 1651年5月4日
徳川家を離れた若武者
水野勝成は、永禄7年(1564)に水野忠重の子として三河国に生まれた武将です。父の従兄弟に徳川家康があたり、若いころは徳川方として高天神城攻めや小牧・長久手の戦いなどに参加しました。しかし父との不和から水野家を離れ、織田信雄、豊臣秀次、黒田氏、佐々氏など複数の大名のもとを渡り歩きます。
この約15年に及ぶ遍歴には不明な点や後世の逸話も多く、「鬼日向」と呼ばれた豪勇像だけで事実を埋めない注意が必要です。慶長年間に家康の仲介で父と和解して水野家へ戻り、慶長5年(1600)に忠重が殺害されると家督を継ぎました。
関ヶ原・大坂の陣から福山へ
勝成は関ヶ原の戦いで徳川方に属し、その後は三河刈谷、大和郡山の領主となりました。大坂の陣でも軍功を挙げ、元和5年(1619)、福島正則の改易後に備後東南部・備中西南部10万石を与えられます。西国の外様大名を監視する位置に、家康と血縁のある武功派大名が置かれた形でした。
勝成は瀬戸内海と山陽道を押さえる丘陵に福山城を築き、元和8年(1622)に完成させます。城の名から城下と地域が「福山」と呼ばれるようになり、勝成は福山藩の初代藩主として新しい政治・経済の中心をつくりました。
城下町と水を整える
福山城下は海に近い三角州上にあり、井戸水には塩気や鉄分が混じる問題がありました。勝成は芦田川から水を引き、貯水池で沈殿させた水を土管・木管で城下へ送る上水道を整備します。その総延長は約14キロメートルとされ、近世城下町の早い時期の水道として知られます。治水、干拓、新田開発、産業の保護も進め、城だけでなく人々が暮らす都市の基盤を築きました。
寛永16年(1639)に家督を勝俊へ譲った後も藩政を支え、慶安4年(1651)に88歳で亡くなりました。戦場を遍歴した前半生と、計画的な都市経営に力を注いだ後半生を併せ持つ人物です。
別名
- 異名 鬼日向
この人物に関する歴史
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