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文化人・僧侶

中江藤樹

なかえとうじゅ

生年
1608年4月21日(慶長13年3月7日)
没年
1648年10月11日(慶安元年8月25日)

大洲藩士から郷里の学者へ

中江藤樹は、慶長13年(1608)に近江国小川村で生まれた江戸時代初期の儒学者です。幼名を原、通称を与右衛門といい、「藤樹」は住居近くの藤の木にちなむ号とされます。幼少期に祖父の養子となって米子、のちに伊予大洲へ移り、祖父の家を継いで大洲藩士となりました。

藩士として勤めながら『四書大全』などを読み、朱子学を独学しました。寛永11年(1634)、近江に暮らす母を養うため帰郷を願いましたが許可されず、脱藩して小川村へ戻ります。後世には孝行の美談として語られますが、無許可の離藩は武士として重い行為でした。帰郷後は酒を売って暮らしを支えつつ、村人や門人に学問を教えました。

良知と日常の実践

藤樹は当初、朱子学の枠内で学びましたが、やがて王陽明の書に接し、人の心に備わる「良知」を明らかにし、知識と行動を一致させることを重視するようになります。そのため日本陽明学の祖と呼ばれます。ただし、藤樹の思想は中国の陽明学をそのまま移したものではなく、孝を中心に据え、身分や性別を越えて日常生活で徳を実践する独自の教えへ展開しました。

代表的な著作には、門人との問答形式で道徳を説いた『翁問答』、女性に向けた教訓書『鑑草』などがあります。門下からは熊沢蕃山らが出ました。知識を誇る学問ではなく、親子・夫婦・主従や地域社会の関係の中で行いを正すことを求めた点が、広い層に受け入れられました。

藤樹書院と「近江聖人」

晩年に門人たちと学んだ藤樹書院は、藤樹が亡くなる直前の慶安元年(1648)に完成しました。同年、藤樹は41歳で死去します。建物は明治期の火災後に再建されましたが、書院跡と墓所は国の史跡として保存され、郷里では今も命日に儒式の祭典が行われています。

藤樹は没後、その人格と教えを慕われて「近江聖人」と呼ばれました。単に陽明学の学派を始めた思想家ではなく、武士の身分を離れ、村を教育の場として、学問を暮らしの倫理へ結びつけた実践者として重要です。

別名

  • 通称 中江与右衛門

この人物に関する歴史

全1件

命日

中江藤樹が亡くなる

1648年10月11日(慶安元年8月25日)、儒学者の中江藤樹が近江国小川村で亡くなりました。数え41でした。藤樹は伊予大洲藩士を辞して故郷へ戻った後、身分を問わず人々を教え、学問を日々の行いに結びつけることを重んじました。 門人が増えると…

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