武将・大名
丹羽長秀
にわながひで
- 生年
- 1535年10月16日(天文4年9月20日)
- 没年
- 1585年5月15日(天正13年4月16日)
信長を古くから支えた宿老
丹羽長秀は、天文4年(1535)に尾張国で生まれ、若くして織田信長に仕えた武将です。信長が尾張国内の主導権を争っていた時期から軍事行動に加わり、稲生の戦い、美濃攻略、姉川の戦いなどを通じて重臣へ進みました。柴田勝家らと並ぶ宿老となり、信長の養女を妻に迎えるなど、織田家と深い関係を結びます。
天正元年(1573)に若狭一国を与えられ、小浜を拠点としました。その後は越前一向一揆の鎮圧や北陸方面の支配にも関わります。大軍を率いる前線指揮官としてだけでなく、政権の命令を地域で実行し、寺社や城郭の造営をまとめる実務家として重用された点が長秀の特徴です。
安土城を築いた総普請奉行
天正4年(1576)、信長が琵琶湖東岸で安土城の築城を始めると、長秀は総普請奉行を務めました。石材、材木、職人を広い地域から集め、多数の家臣や領民が関わる大事業を統括します。安土城は城下町や水運と結びついた信長政権の拠点であり、その建設を任されたことは長秀への信頼の大きさを示しています。
長秀は安土城のほか、京都の寺社や御所の造営にも関与しました。戦場での華々しい逸話より目立ちにくいものの、軍事・行政・普請を横断して働く能力が、拡大する織田政権を支えました。
織田政権から秀吉の時代へ
天正10年(1582)の本能寺の変後、長秀は羽柴秀吉と合流し、山崎の戦いで明智光秀を破りました。清洲会議では信長の嫡孫・三法師を後継者とする案を支持し、その後も秀吉に協力します。賤ヶ岳の戦い後には越前・加賀などを与えられ、百二十万石を超える大領主となりました。
天正13年(1585)、長秀は病により51歳で亡くなります。家督を継いだ長重は間もなく大幅に減封されました。長秀の生涯は、信長の統一事業を軍事と造営の双方で支え、本能寺の変後には織田家の旧臣として秀吉の政権形成を支えた宿老の歩みでした。
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