武将・大名
真田昌幸
さなだまさゆき
武田氏の家臣から真田家当主へ
真田昌幸は、信濃国小県郡を基盤とした真田幸綱の三男です。若いころは甲斐の武田信玄に仕え、武藤氏を継いで武藤喜兵衛と名乗りました。武田家の一門に近い立場で活動し、信玄・勝頼の二代に仕えたと考えられています。天正3年(1575)の長篠の戦いで兄の信綱と昌輝がともに討死すると、真田家へ戻って家督を継ぎました。
昌幸は父や兄たちが進めた上野国吾妻・沼田方面への進出を引き継ぎました。しかし天正10年(1582)に武田氏が滅び、続いて本能寺の変で織田信長も死去すると、旧武田領では徳川・北条・上杉の三勢力が争います。昌幸は織田、北条、徳川、上杉へと帰属先を変えながら、上田と沼田の所領を守ろうとしました。この転身は無節操というより、大勢力に囲まれた小領主が家と領国を存続させるための選択でした。
上田城と二度の徳川軍迎撃
天正11年(1583)、昌幸は徳川家康の援助を受けて上田城の築城に着手しました。ところが沼田領を北条氏へ渡すよう求められるとこれを拒み、徳川氏と対立します。天正13年(1585)の第一次上田合戦では上杉景勝の支援を得て、上田城へ攻め寄せた徳川軍を撃退しました。その後は豊臣秀吉に従い、上田領と沼田領の一部を支配する大名として位置づけられます。
慶長5年(1600)、昌幸と次男の信繁は西軍に属し、長男の信幸は徳川方に残りました。昌幸父子は上田城で徳川秀忠の軍と戦い、その西上を遅らせます。ただし秀忠が関ヶ原本戦に遅れた理由を上田合戦だけに求めるのは単純で、行軍計画や天候なども含めて考える必要があります。
九度山で迎えた最期
西軍の敗北後、昌幸と信繁は死罪を免れ、高野山を経て紀伊九度山に蟄居しました。助命には、東軍についた信幸とその舅・本多忠勝の働きがあったとされます。昌幸は赦免を願いながら困窮した生活を送り、長男へ援助を求める書状も残しました。慶長16年(1611)、帰国を果たせないまま九度山で亡くなります。
昌幸は「家康が最も恐れた軍師」といった後世の表現で知られますが、その実像は合戦の奇策だけでは捉えられません。武田氏滅亡後の激しい勢力交代を読み、城と交通路、婚姻や主従関係を用いて真田氏を大名へ成長させた領主でした。
この人物に関する歴史
全1件
第一次上田合戦で真田昌幸方が徳川軍を撃退する
1585年9月25日(天正13年閏8月2日)、第一次上田合戦で真田昌幸方が徳川軍を退けました。発端は上野国沼田領をめぐる対立です。徳川家康は北条氏との和睦条件に基づいて沼田領の引き渡しを求めましたが、自力で領地を確保してきた昌幸は拒否し、徳…
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信濃の豪族・真田家に生まれた昌幸は、武田信玄に仕え、その才能を見出される。織田信長打倒のために西上をはじめた武田軍だったが、信玄が病に倒れ、武田家は滅亡の道をたどった。昌幸は二人の息子・信幸と幸村と話し合い、真田家は信長に降ることを決める。しかし、織田信長が倒れ、徳川・上杉・北条の三大勢力が真田家に迫る。群雄割拠の世、真田家の生き残りをかけ、昌幸は知略を駆使して立ち向かう!!