武将・大名
竹中重治
たけなかしげはる
- 生年
- 1544年9月27日(天文13年9月11日)
- 没年
- 1579年
美濃斎藤氏に仕えた竹中半兵衛
竹中重治は、通称の半兵衛で広く知られる美濃国の武将です。天文13年(1544)、竹中重元の子として大御堂に生まれたと伝わり、のちに岩手の菩提山城を本拠としました。父の死後は斎藤龍興に仕え、斎藤氏の家臣である安藤守就の娘を妻とします。美濃国内の国衆と斎藤家臣団を結ぶ位置にいた人物でした。
永禄7年(1564)、重治は少人数で稲葉山城へ入り、龍興を城外へ退かせたとされます。弟の見舞いを装って登城した、侮辱への報復だったなど複数の逸話がありますが、理由や参加人数の細部は後世の軍記・地誌によるところが大きく、確定できません。城を長く占拠せず退去したことも含め、この行動を天下取りの野心や単純な主君への諫言だけで説明するのは難しいでしょう。
秀吉のもとで担った軍事実務
斎藤氏が滅びた後、重治は織田信長に従い、羽柴秀吉の与力として行動しました。近江攻略では浅井方の武将への働きかけや城の守備に関わり、秀吉が長浜を支配する過程を支えます。天正5年(1577)から秀吉が播磨・中国方面へ進むと、重治も従軍し、城攻めや在地勢力の調略に携わりました。
重治は黒田孝高と並ぶ「両兵衛」、秀吉の天才軍師として語られます。しかし、近代以降に広まった軍師像には、後世の読み物や軍記が作り上げた逸話が多く含まれます。同時代の活動から見えるのは、作戦を一人で決める万能の参謀というより、秀吉の配下で交渉、調略、城の守備、部隊指揮を担った有力な与力です。
三木の陣での病没
播磨では別所長治が毛利方へ転じ、秀吉は三木城を包囲しました。重治はその陣中で病を得て、一時は京都で療養したものの、再び平井山の陣へ戻り、天正7年(1579)に36歳で亡くなりました。現在の墓所は、子の重門が菩提山麓の禅幢寺へ移したと伝わります。
荒木村重の説得に向かった黒田孝高が有岡城で幽閉された際、重治が孝高の子・松寿丸をかくまったという話もよく知られます。史料の性格を確かめる必要はありますが、竹中家と黒田家の関係を象徴する逸話となりました。重治は36年の短い生涯のため確認できる事績が限られます。名軍師伝説と史実を区別しつつ、秀吉の初期軍団を支えた実務的な武将として見ることが大切です。
別名
- 通称 竹中半兵衛
この人物に関する歴史
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