武将・大名
徳川光友
とくがわみつとも
- 生年
- 1625年8月31日(寛永2年7月29日)
- 没年
- 1700年11月26日
尾張徳川家の後継者
徳川光友は、寛永2年(1625)に尾張藩初代藩主・徳川義直の長男として生まれた大名です。幼名は五郎太。寛永10年(1633)に江戸城で元服し、3代将軍徳川家光から「光」の一字を与えられて光義と名乗り、のちに光友と改めました。正室に家光の長女・千代姫を迎え、御三家の尾張徳川家と将軍家の結びつきを強めました。
慶安3年(1650)、父義直の死によって26歳で家督を継ぎます。尾張藩は名古屋城を中心に東海道の要地を治める大藩であり、光友は父の時代に形づくられた家臣団と行政組織を受け継ぎ、長い治世のなかで藩政を定着させました。
城下・寺院と尾張の文化
光友は父の菩提を弔うため建中寺を創建し、実母・於尉の方を弔う大森寺も整えました。寺院の造営は追善だけでなく、城下の空間と尾張徳川家の儀礼を形づくる事業でもありました。名古屋城下の整備を進め、御三家の城下町としての基盤を固めます。
書画や能を好み、藩主として初めて名古屋城へ入った際の祝賀能を契機に、町人を城内へ招く「町入り能」が始まったとされます。また父義直から受け継いだ蔵書に中国書や日本の古典を加え、2万冊を超える書物を収集しました。その多くは現在の名古屋市蓬左文庫へ受け継がれています。
大曽根下屋敷と長い治世
光友は元禄6年(1693)に家督を綱誠へ譲りました。元禄8年(1695)には大曽根下屋敷を隠居所として造営し、広大な庭園を築きます。この屋敷と庭園は、現在の徳川園へつながる場所です。
元禄13年(1700)、光友は76歳で亡くなりました。藩主と隠居の期間を合わせて約半世紀にわたり尾張徳川家を支え、藩政、寺院、能、蔵書、庭園に長く残る基盤を築きました。軍事的な戦功ではなく、平和が定着する17世紀後半に大藩の制度と文化を蓄積した当主として位置づけられます。
この人物に関する歴史
全1件