武将・大名
鳥居元忠
とりいもとただ
- 生年
- 1539年
- 没年
- 1600年9月8日(慶長5年8月1日)
家康と歩んだ三河武士
鳥居元忠は、徳川家康に幼少期から仕えた三河武士です。天文8年(1539)に松平氏の家臣・鳥居忠吉の子として生まれ、家康が今川氏の人質として駿府で暮らしていた時代から近侍しました。通称は彦右衛門で、家康の独立後は三河統一や遠江への進出を支えます。
元忠は姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、家康が勢力を築く過程で多くの戦いに参加しました。天正10年(1582)に武田氏が滅びた後は甲斐の支配にも関わり、天正18年(1590)に家康が関東へ移ると、下総国矢作4万石を与えられました。
伏見城の留守居
慶長5年(1600)、家康が会津の上杉景勝を討つため東へ向かうと、元忠は京都近くの重要拠点・伏見城の守備を任されます。石田三成らが挙兵すれば城が攻撃され、生還が難しいことを承知したうえでの任務でした。元忠らは少数の守備兵で西軍を迎え、約2週間にわたって抵抗します。
伏見城は落城し、元忠は城内で討死しました。この戦いは関ヶ原の戦いの前哨戦となり、西軍を伏見に足止めして家康側が態勢を整える時間を生んだとされています。家康への長年の忠節を貫いた最期から、元忠は後世に「三河武士の鑑」と称されました。
血天井に残る記憶
伏見城で元忠らが自刃した廊下の板は、供養のため京都の養源院、正伝寺、源光庵などの天井に用いられたと伝わり、「血天井」と呼ばれています。史実と伝承が重なりながら、元忠と籠城した将兵の最期を現在へ伝えています。
この人物に関する歴史
全5件
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伏見城の戦いが始まる
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