武将・大名
山内豊昌
やまうちとよまさ
- 生年
- 1641年10月3日(寛永18年8月29日)
- 没年
- 1700年
土佐藩を継いだ4代藩主
山内豊昌は、寛永18年(1641)に土佐藩3代藩主・山内忠豊の長男として生まれた大名です。通称は国松。寛文9年(1669)、父の隠居により29歳で家督を継ぎ、土佐藩4代藩主となりました。前代には野中兼山の急進的な政策が家臣や領民の反発を招き、兼山の失脚後に制度を緩和する「寛文改替」が進められていました。豊昌は、その後の藩政と財政を安定させる課題を引き継ぎました。
天和改革と元禄大定目
天和元年(1681)、豊昌は新たに召し抱える家臣への給与を、領地を与える地方知行から藩の蔵米を支給する蔵米知行へ改めました。年貢制度にも手を加え、藩が土地と収入を把握しやすい仕組みへ移そうとします。これらの施策は「天和改革」と呼ばれ、慢性的な財政難に直面していた土佐藩の運営を立て直す試みでした。
元禄3年(1690)には、寛文改替以後に出された法令を整理して『元禄大定目』を制定しました。幕府法を踏まえながら、藩内の法令を3巻570条余りにまとめたもので、以後長く土佐藩政の指針となります。城下の市日を定めた条文も含まれ、現在の高知市で続く街路市の歴史にもつながっています。個別の命令を体系的な規範へまとめたことは、豊昌の治世を代表する成果です。
災害への対応と家督継承
改革を進める一方、元禄11年(1698)には高知城下の大半を焼く火災が起こるなど、災害が藩財政を圧迫しました。制度を整えても財政再建は容易ではなく、豊昌の治世は近世大名が安定した統治機構を築く難しさも示しています。
豊昌には家督を継ぐ男子がいなかったため、元禄2年(1689)、分家の指扇山内家から豊房を娘婿に迎えて養嗣子としました。元禄13年(1700)に豊昌が60歳で亡くなると、豊房が5代藩主となります。豊昌は30年余りの治世を通じ、家臣団の給与、年貢、法令、後継者を整え、土佐藩が次代へ続く統治の枠組みを残しました。
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