1595年9月5日(文禄4年8月2日)、最上義光の娘・駒姫が京都の三条河原で処刑されました。駒姫は関白・豊臣秀次の側室に望まれ、山形から京都へ送られました。しかし、到着した頃には秀次が謀反の疑いをかけられ、高野山で自害を命じられていました。
駒姫は秀次と実質的な夫婦生活に入る前だったとされます。それでも秀次の一族として処刑の対象となり、妻妾や子どもたちとともに命を奪われました。父の義光は助命を求めましたが、処刑を止めることはできませんでした。秀吉が途中で助命を認めたものの使者が間に合わなかったという話もありますが、確実な事実としては確認できません。
駒姫の年齢は数え15歳とする説と19歳とする説があります。義光は娘の死を深く悼み、天童の高擶にあった専称寺を山形城下へ移して菩提寺としました。京都の瑞泉寺と山形の専称寺には、それぞれ駒姫を弔う記憶が残ります。その死は、豊臣政権の後継争いに巻き込まれた若い女性の悲劇を伝えています。