女性
駒姫
こまひめ
- 生年
- 1581年
- 没年
- 1595年9月5日(文禄4年8月2日)
最上義光の娘
駒姫は、天正9年(1581)ごろに出羽国の戦国大名・最上義光の娘として生まれた女性です。義光の次女とされ、父から深く慈しまれて育ったと伝わります。実名を「駒」とする確かな同時代史料は限られますが、後世には駒姫の名で広く知られるようになりました。
関白・豊臣秀次は駒姫を側室に望み、最上家は豊臣政権との関係を結ぶため、娘を京都へ送ることになります。義光は幼い娘を手放すことをためらったとも伝わりますが、婚姻交渉の詳しい経緯には後世の脚色が含まれる可能性があります。確かなのは、駒姫が山形を離れ、京都へ到着した時期に秀次事件が起こったことです。
秀次事件と三条河原
文禄4年(1595)、秀次は豊臣秀吉から高野山へ追放され、切腹を命じられました。秀次の妻子や側室たちも捕らえられ、京都の三条河原で処刑されます。駒姫は秀次と正式な夫婦生活を始める前だったともいわれますが、秀次の縁者として処刑対象から外されませんでした。
義光は娘の助命を求め、使者を通じて働きかけました。しかし赦免は間に合わず、駒姫は同年8月2日、数え15歳で命を奪われたと伝わります。秀次事件では女性や幼い子どもを含む多くの人々が処刑されており、駒姫の死は豊臣政権内部の粛清が大名家の婚姻相手にまで及んだことを示しています。京都の瑞泉寺には秀次一族と処刑された人々を弔う墓所があります。
山形に残る供養
義光は駒姫の死を深く悲しみ、天童の高擶にあった専称寺を山形城下へ移して菩提寺としたと伝わります。専称寺には駒姫の墓があり、最上家の保護を受けて整えられた大規模な本堂と伽藍が現在まで残っています。
駒姫自身の言葉や詳しい生涯を伝える史料はほとんどありません。そのため、悲劇を強調する物語だけで性格や心情を作り上げない注意が必要です。短い生涯と死後の供養からは、戦国大名の娘が家同士を結ぶ婚姻に組み込まれ、政権の判断によって命まで左右された現実が見えてきます。
別名
- 別名 伊万
この人物に関する歴史
全2件
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