1573年9月16日(天正元年8月20日)、当主・朝倉義景の自害によって、越前朝倉氏は戦国大名として滅亡しました。朝倉氏は応仁の乱を機に越前の支配を確立し、一乗谷を本拠として5代100余年にわたり領国を治めてきました。
義景は近江の浅井長政を救援するため出陣しましたが、織田信長軍の攻撃を受けて刀根坂で大敗します。一乗谷へ戻った後、いとこの朝倉景鏡の勧めで大野郡へ移りました。その間に信長軍は一乗谷へ進み、8月18日から20日まで城下を焼き払い、朝倉氏の政治と文化の中心を破壊しました。
義景が景鏡の兵に囲まれて自害すると、母の光徳院と遺児の愛王丸も捕らえられ、後に殺されました。生き残った一族や家臣の多くは信長に従い、朝倉氏の組織は解体されます。一方、一乗谷の商人や寺院の一部は北庄へ移り、その営みは新しい城下へ受け継がれました。朝倉氏の滅亡は、越前の政治と都市の中心が移る転換点でした。