武将・大名
筒井順慶
つついじゅんけい
- 生年
- 1549年3月31日(天文18年3月3日)
- 没年
- 1584年9月15日(天正12年8月11日)
興福寺衆徒から大和の支配者へ
筒井順慶は、大和国の筒井氏に生まれた戦国大名です。父・順昭の死後、幼くして家督を継ぎました。筒井氏は興福寺の衆徒を基盤とする在地勢力でしたが、大和へ進出した松永久秀らとの争いで順慶はたびたび本拠の筒井城を追われます。三好三人衆らと結びながら勢力を回復し、織田信長が畿内を支配するとその配下に入りました。
天正5年(1577)、信長に背いた松永久秀が信貴山城で滅び、順慶は大和での優位を固めます。天正8年(1580)には信長から大和一国の支配を認められ、筒井城を離れて郡山城へ入りました。国中の城を郡山城以外は破却する命令のもと、奈良の大工や旧多聞城の石材を集め、明智光秀の監督を受けながら新しい支配拠点の整備を進めました。
「洞ヶ峠」の実像
天正10年(1582)の本能寺の変後、明智光秀は姻戚関係にあった順慶へ援軍を求めました。後世には、順慶が洞ヶ峠で山崎の戦況を見守り、勝ちそうな側へつこうとしたという逸話が広まり、「洞ヶ峠」は日和見の代名詞になります。
しかし『多聞院日記』などの記録によれば、順慶は洞ヶ峠へ出陣しておらず、郡山城で軍議を重ねていました。光秀の求めに応じないまま羽柴秀吉の東上を知り、山崎の戦い後に秀吉へ従います。対応が慎重だったことは確かでも、有名な峠上の観望場面は史実と区別しなければなりません。
郡山城下の基礎を残す
秀吉から大和支配を認められた順慶は、その後も賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに従いましたが、天正12年(1584)に36歳で病没しました。養子の定次が家督を継いだものの、翌年に伊賀上野へ移され、郡山城には豊臣秀長が入ります。順慶の城づくりは道半ばでしたが、大和の諸勢力をまとめ、郡山を一国支配の中心へ転換したことが、近世城下町へ続く重要な足跡です。
別名
- 旧名 藤勝
- 旧名 藤政
この人物に関する歴史
全2件
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1584年9月15日(天正12年8月11日)、大和国を治めた筒井順慶が36歳で亡くなりました。順慶は興福寺の衆徒を出自とし、松永久秀らとの長い抗争を経て勢力を広げた人物です。織田信長から大和一国の支配を認められると、筒井城から郡山城へ本拠を…