朝倉宗滴が亡くなる
1555年9月23日(天文24年9月8日)、越前朝倉氏の宿老・朝倉宗滴が一乗谷で亡くなりました。数え79とされます。本名は教景といい、宗滴は法名です。長年にわたり朝倉貞景・孝景・義景の3代を支え、領国の防衛と周辺地域への軍事介入を指揮しまし…
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1555年9月23日(天文24年9月8日)、越前朝倉氏の宿老・朝倉宗滴が一乗谷で亡くなりました。数え79とされます。本名は教景といい、宗滴は法名です。長年にわたり朝倉貞景・孝景・義景の3代を支え、領国の防衛と周辺地域への軍事介入を指揮しまし…
1569年9月23日(永禄12年8月13日)、立花誾千代は大友氏の重臣・戸次道雪の一人娘として生まれました。道雪は筑前の立花城を任され、立花姓を名乗った武将です。しかし男子の後継者がいなかったため、誾千代の誕生は立花家の継承に直結する意味を…
1573年9月23日(天正元年8月27日)、北近江の戦国大名・浅井久政が小谷城で自害しました。久政は浅井亮政の子で、父の死後に家督を継ぎましたが、南近江の六角氏から強い圧力を受けます。六角氏との従属的な関係に不満を持つ家臣らは、嫡男の長政を…
1581年9月23日は、須賀川城主・二階堂盛義の命日とする説がある日です。ただし、盛義の没年月日には異説があり、天正9年8月26日とする説のほか、同年7月23日とする人名辞典もあります。史料や系譜の記載が一致しないため、特定の日付だけを確定…
1597年9月23日、慶長の役における南原城の戦いが始まりました。豊臣秀吉は明との和平交渉が決裂すると朝鮮への再出兵を命じ、日本軍は全羅道への進出を目標に左右二軍へ分かれて北上します。宇喜多秀家を主将とする左軍は、全羅道内陸部の要地・南原へ…
1640年9月23日(寛永17年8月8日)、伊達綱宗は仙台藩2代藩主・伊達忠宗の六男として生まれました。幼名は巳之助といいます。生まれた時点では家督から遠い立場でしたが、兄たちが相次いで早世したため世子となり、将軍徳川家綱から一字を受けて綱…
1585年9月25日(天正13年閏8月2日)、第一次上田合戦で真田昌幸方が徳川軍を退けました。発端は上野国沼田領をめぐる対立です。徳川家康は北条氏との和睦条件に基づいて沼田領の引き渡しを求めましたが、自力で領地を確保してきた昌幸は拒否し、徳…
1573年9月26日(天正元年9月1日)、北近江の戦国大名・浅井長政が小谷城で自害しました。長政は織田信長の妹・お市を妻に迎えて同盟を結びましたが、1570年に信長が越前の朝倉義景を攻めると朝倉方に立ち、その後3年にわたって織田軍へ抵抗しま…
1597年9月26日、数日間にわたって包囲されていた南原城が日本軍の総攻撃によって陥落しました。宇喜多秀家を主将とする日本の左軍は、城の周囲に設けられた堀や防備を埋めながら接近し、夜間から城壁へ攻撃を集中させました。 城内では楊元率いる明軍…
1626年9月26日(寛永3年8月6日)、脇坂安治が京都で亡くなりました。安治は近江国の出身で、羽柴秀吉に仕え、1583年の賤ヶ岳の戦いで武功を挙げました。福島正則や加藤清正らとともに「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられ、豊臣政権のもとで大名…
1544年9月27日(天文13年9月11日)、竹中重治は竹中重元の子として美濃国大野郡大御堂に生まれました。通称の半兵衛で広く知られます。父の重元はのちに不破郡へ勢力を広げて菩提山城を本拠とし、重治もこの城を継いで美濃と近江の境を基盤に活動…
1597年9月27日、慶長の役で日本軍が朝鮮の黄石山城を攻略しました。黄石山城は慶尚道から全羅道の全州方面へ進む交通路を押さえる山城です。日本の右軍は毛利秀元を主将とし、加藤清正、黒田長政、吉川広家、鍋島直茂らの軍勢で構成されていました。 …
1597年9月28日(慶長2年8月17日)、松平忠国が生まれました。父は上野高崎藩主を経て丹波篠山藩主となった松平信吉です。忠国はその長男として、徳川家康の異父弟・松平康元から続く藤井松平家の家督を継ぐ立場に生まれました。 忠国は大坂夏の陣…
1551年9月30日(天文20年9月1日)、周防・長門の戦国大名・大内義隆が、長門の大寧寺で自害しました。重臣の陶隆房が挙兵して山口へ迫ると、義隆は法泉寺に入って抵抗を試みます。しかし兵の離脱が相次ぎ、山口を離れて北へ逃れました。 義隆は長…
1551年9月30日(天文20年9月1日)、大内義隆が長門の大寧寺で自害し、大寧寺の変が決着しました。事件はこの日の数日前、重臣の陶隆房が旧暦8月28日に挙兵して山口へ進んだことから始まります。義隆との関係を悪化させていた隆房は、前年には安…
1571年9月30日(元亀2年9月12日)、織田信長軍が比叡山を攻撃しました。前年の志賀の陣では浅井・朝倉連合軍が比叡山周辺へ進出し、延暦寺も反信長の立場を明確にしました。朝廷の仲介で信長と浅井・朝倉氏は一時和睦しましたが、延暦寺との対立は…
1632年10月1日(寛永9年8月18日)、盛岡藩主・南部利直が江戸の桜田邸で亡くなりました。数え57でした。利直は父・南部信直の後を継ぎ、徳川政権のもとで広い南部領をまとめながら、政治と経済の中心を三戸から盛岡へ移す事業を進めていました。…
1648年10月1日(慶安元年8月15日)、松平直基が亡くなりました。直基は結城秀康の子で、徳川家康の孫にあたります。越前勝山、大野を経て出羽山形15万石を治め、この年、西国の重要拠点である播磨姫路15万石への転封を命じられていました。 し…
1515年10月2日(永正12年8月25日)、島津氏第12代当主・島津忠治が、大隅の吉田城を攻める陣中で亡くなりました。数え27でした。忠治は1508年に父・忠昌が自害した後、若くして薩摩・大隅・日向三国の守護職と島津本家の家督を継いでいま…
1628年10月2日(寛永5年9月5日)、山形藩主・鳥居忠政が山形で亡くなりました。忠政は伏見城の戦いで討死した鳥居元忠の子です。父の死後に家督を継ぎ、磐城平を経て、1622年に最上氏が改易された後の出羽山形へ22万石で入りました。 最上氏…