狩野元信が亡くなる
1559年11月5日(永禄2年10月6日)、狩野派の絵師・狩野元信が亡くなりました。元信は室町幕府の御用絵師を務めた狩野正信の子で、狩野派の2代目にあたります。父が築いた基盤を、長く続く絵師集団の仕組みへ発展させた人物です。 元信は中国絵画…
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この日に生涯を閉じた人物を、その歩みや関係する出来事とともにたどれます。
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1559年11月5日(永禄2年10月6日)、狩野派の絵師・狩野元信が亡くなりました。元信は室町幕府の御用絵師を務めた狩野正信の子で、狩野派の2代目にあたります。父が築いた基盤を、長く続く絵師集団の仕組みへ発展させた人物です。 元信は中国絵画…
1584年11月8日(天正12年10月6日)、会津の戦国大名・蘆名盛隆が黒川城で殺害されました。数え24歳でした。盛隆は須賀川城主・二階堂盛義の子でしたが、二階堂氏が蘆名氏に従った際、人質として会津へ送られた人物です。 蘆名盛氏の嫡男・盛興…
1630年11月9日(寛永7年10月5日)、津藩主の藤堂高虎は江戸の藤堂藩邸で亡くなりました。近江の土豪の家に生まれた高虎は、浅井氏や豊臣秀長ら複数の主君に仕え、戦功を重ねて大名となった人物です。豊臣秀吉の死後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦…
1612年11月13日(慶長17年10月21日)、天正遣欧少年使節の正使を務めた伊東マンショは、長崎のイエズス会学院で病死しました。マンショは日向の戦国大名・伊東氏の一族に生まれましたが、島津氏の侵攻で一族が豊後へ逃れた際に両親と離れ、イエ…
1643年11月13日(寛永20年10月2日)、天台僧の天海は江戸上野の寛永寺で亡くなったとされます。天海の生年には諸説があり、108歳で没したという伝承もそのまま事実とは断定できません。また、命日を10月1日とする記録もありますが、辞典類…
1596年11月16日(慶長元年9月26日)、筑前国の戦国大名・秋月種実が亡くなりました。種実は大友氏との戦いで古処山城を失った秋月氏を再興し、北部九州へ勢力を広げた人物です。 種実は幼いころに父と兄を失い、毛利氏を頼って周防国へ逃れました…
1600年11月16日(慶長5年10月11日)、日向国飫肥の領主・伊東祐兵が亡くなりました。42歳でした。祐兵は、父・伊東義祐の代に日向を追われた伊東氏を再興し、飫肥へ戻った人物です。 伊東氏は日向で島津氏と争いましたが、1577年に本拠を…
1600年11月17日(慶長5年10月12日)、志摩の水軍を率いた九鬼嘉隆が、鳥羽沖の答志島で自害したと伝わります。嘉隆は織田信長と豊臣秀吉に仕え、海上戦や水上輸送を担った武将です。 嘉隆は志摩の諸勢力をまとめ、信長の石山本願寺攻めでは大船…
1567年11月19日(永禄10年10月19日)、武田信玄の嫡男・武田義信が、甲府の東光寺で亡くなりました。義信は信玄と正室・三条の方の長男として生まれ、武田家の後継者と位置づけられていた人物です。 義信は室町幕府将軍・足利義輝から一字を受…
1577年11月19日(天正5年10月10日)、松永久秀が大和国の信貴山城で自害し、城が落ちました。久秀は三好長慶のもとで台頭し、大和へ進出して信貴山城と多聞城を拠点に勢力を築いた武将です。 三好政権が衰え、織田信長が畿内へ進出すると、久秀…
1586年11月19日(天正14年10月9日)、三春城を本拠とした戦国大名・田村清顕が急死しました。清顕の時代、田村氏は陸奥国田村郡を基盤に勢力を整え、周囲の伊達氏、相馬氏、蘆名氏、佐竹氏らと向き合っていました。 清顕は一人娘の愛姫を伊達政…
1599年11月22日(慶長4年10月5日)、南部信直が陸奥国の福岡城で亡くなりました。信直は家中の争いを経て南部氏の当主となり、豊臣政権のもとで領国を確定させ、盛岡城の築城を始めた人物です。 信直は南部晴政の養嗣子となりましたが、のちに晴…
1555年11月23日(弘治元年閏10月10日)、今川義元を支えた禅僧・太原雪斎が亡くなりました。太原崇孚ともいい、60歳でした。僧侶でありながら、今川氏の外交、軍事、領国経営にも関わった人物です。 雪斎は幼いころに出家し、のちの義元ととも…
1587年11月25日(天正15年10月25日)、新発田城が落城し、城主・新発田重家が亡くなりました。重家が上杉景勝へ反旗を翻してから続いた、越後国内の長い抗争が終わりを迎えた日です。 重家と兄の新発田長敦は、上杉謙信の死後に起きた御館の乱…
1585年11月29日(天正13年10月8日)、伊達政宗の父・伊達輝宗が、現在の福島県二本松市にあたる高田原で亡くなりました。二本松城主・畠山義継に拉致された末、義継とともに命を落とした事件で、粟ノ須の変と呼ばれます。 輝宗は前年の1584…
1541年11月30日(天文10年11月13日)、尼子経久が出雲国の月山富田城で亡くなりました。数え84歳でした。経久は出雲守護代の家に生まれ、月山富田城を拠点に出雲国内の支配を固め、尼子氏を山陰・山陽に勢力を持つ戦国大名へ成長させた人物で…
1602年11月30日(慶長7年10月17日)、立花誾千代が肥後国玉名郡腹赤村、現在の熊本県長洲町で亡くなりました。数え34歳でした。誾千代は立花道雪の一人娘で、幼くして立花城の城督と所領を継ぎ、のちに立花宗茂の正室となった女性です。 宗茂…
1602年12月1日(慶長7年10月18日)、備前・美作を治めた岡山城主・小早川秀秋が亡くなりました。数え21歳でした。関ヶ原の戦いから約2年後の死で、後継者がいなかったため小早川本宗家は断絶します。 秀秋は豊臣秀吉の正室・高台院の甥として…
1552年12月3日、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが、中国南部の上川島で亡くなりました。46歳でした。中国での宣教を目指して大陸への入国を待っていた途中の死で、日本を離れてから約1年後のことです。 ザビエルはイグナチオ・ロヨラらと…
1610年12月3日(慶長15年10月18日)、徳川家康に仕えた本多忠勝が伊勢国桑名で亡くなりました。数え63歳でした。忠勝は家康の主要な家臣として戦国期の合戦を戦い、のちに上総大多喜、伊勢桑名を治めた大名です。 忠勝は三河国で生まれ、幼い…