荒木村重が有岡城を出る
1579年9月22日(天正7年9月2日)、荒木村重は織田信長軍に包囲されていた有岡城を出て、尼崎城へ移りました。村重が信長に背いてから籠城は約10か月に及び、城内は外部からの援軍を得られないまま厳しい状況に置かれていました。村重に同行したの…
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合戦、政変、制度や文化など、戦国時代から江戸初期に起きた出来事をたどれます。
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1579年9月22日(天正7年9月2日)、荒木村重は織田信長軍に包囲されていた有岡城を出て、尼崎城へ移りました。村重が信長に背いてから籠城は約10か月に及び、城内は外部からの援軍を得られないまま厳しい状況に置かれていました。村重に同行したの…
1597年9月23日、慶長の役における南原城の戦いが始まりました。豊臣秀吉は明との和平交渉が決裂すると朝鮮への再出兵を命じ、日本軍は全羅道への進出を目標に左右二軍へ分かれて北上します。宇喜多秀家を主将とする左軍は、全羅道内陸部の要地・南原へ…
1585年9月25日(天正13年閏8月2日)、第一次上田合戦で真田昌幸方が徳川軍を退けました。発端は上野国沼田領をめぐる対立です。徳川家康は北条氏との和睦条件に基づいて沼田領の引き渡しを求めましたが、自力で領地を確保してきた昌幸は拒否し、徳…
1597年9月26日、数日間にわたって包囲されていた南原城が日本軍の総攻撃によって陥落しました。宇喜多秀家を主将とする日本の左軍は、城の周囲に設けられた堀や防備を埋めながら接近し、夜間から城壁へ攻撃を集中させました。 城内では楊元率いる明軍…
1597年9月27日、慶長の役で日本軍が朝鮮の黄石山城を攻略しました。黄石山城は慶尚道から全羅道の全州方面へ進む交通路を押さえる山城です。日本の右軍は毛利秀元を主将とし、加藤清正、黒田長政、吉川広家、鍋島直茂らの軍勢で構成されていました。 …
1551年9月30日(天文20年9月1日)、大内義隆が長門の大寧寺で自害し、大寧寺の変が決着しました。事件はこの日の数日前、重臣の陶隆房が旧暦8月28日に挙兵して山口へ進んだことから始まります。義隆との関係を悪化させていた隆房は、前年には安…
1571年9月30日(元亀2年9月12日)、織田信長軍が比叡山を攻撃しました。前年の志賀の陣では浅井・朝倉連合軍が比叡山周辺へ進出し、延暦寺も反信長の立場を明確にしました。朝廷の仲介で信長と浅井・朝倉氏は一時和睦しましたが、延暦寺との対立は…
1574年10月13日(天正2年9月29日)、伊勢国長島を拠点とした一向一揆が織田信長に降伏し、約4年に及ぶ長島一向一揆が終結しました。木曽三川の河口に広がる長島は、水路と輪中を利用して守りやすく、信長は1571年と1573年の攻撃で大きな…
1600年10月13日(慶長5年9月7日)、大津城の戦いが始まりました。城主の京極高次は石田三成らの西軍に加わる姿勢を見せていましたが、東軍側へ転じて大津城に籠城します。琵琶湖水運と京都への交通を押さえる大津は、関ヶ原の戦いを前に両軍が無視…
1597年10月17日(慶長2年9月7日)、朝鮮の稷山付近で、日本軍と明軍が交戦しました。豊臣秀吉による2度目の朝鮮出兵である慶長の役では、日本軍が南原城を攻略して全州へ進み、さらに北上していました。明軍は漢城を守るため、稷山方面へ部隊を送…
1561年10月18日(永禄4年9月10日、ユリウス暦)、武田信玄と上杉政虎が北信濃の川中島で激突しました。現在のグレゴリオ暦では10月28日にあたります。両者は北信濃の支配をめぐって繰り返し対陣しており、5度と数えられる川中島の戦いのうち…
1600年10月19日(慶長5年9月13日)、豊後国の石垣原、現在の大分県別府市で石垣原の戦いが起きました。関ヶ原の戦いを目前に全国の大名が二つの陣営へ分かれるなか、豊後では旧領回復を目指す大友義統方と、徳川方に属する黒田孝高・松井康之方の…
1600年10月20日(慶長5年9月14日)、美濃国大垣城の近くを流れる杭瀬川で、関ヶ原本戦の前哨戦となる杭瀬川の戦いが起きました。徳川家康が大垣城の北西にある赤坂へ着陣したため、大垣城にいた西軍では動揺が広がっていました。 西軍の島左近と…
1600年10月21日(慶長5年9月15日)、美濃国関ヶ原で関ヶ原の戦いが起きました。豊臣秀吉が1598年に亡くなると、幼い秀頼を支える五大老・五奉行の均衡は次第に崩れます。徳川家康が政権内で主導権を強める一方、石田三成らは毛利輝元を総大将…
1597年10月26日、慶長の役のさなか、朝鮮半島南西部の鳴梁海峡で鳴梁海戦が起きました。李舜臣が率いる朝鮮水軍と、藤堂高虎らが加わる日本水軍が衝突した海戦です。 朝鮮水軍は、その約2か月前の漆川梁海戦で壊滅的な打撃を受けていました。当時指…
1598年10月30日(慶長3年10月1日)、朝鮮半島南部の泗川で、島津義弘・忠恒らの軍勢が明・朝鮮連合軍の攻撃を退けました。豊臣秀吉による二度目の朝鮮出兵、慶長の役が終盤を迎えた時期の戦いです。 日本軍は朝鮮半島南岸に築いた倭城を拠点とし…
1587年11月1日(天正15年10月1日)、豊臣秀吉が京都の北野天満宮で北野大茶湯を開きました。九州平定を終え、聚楽第の造営を進めていた秀吉が主催した、身分を問わず参加を呼びかける大規模な茶会です。 北野天満宮の境内と周辺には数多くの茶席…
1600年11月6日(慶長5年10月1日)、関ヶ原の戦いで西軍に属した石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が京都で処刑されました。関ヶ原本戦から16日後のことです。3人は敗戦後にそれぞれ捕らえられ、京都へ送られました。 三成は豊臣政権の奉行として…
1550年11月9日(天文19年10月1日)、村上義清が守る信濃の砥石城から退却した武田晴信の軍は、村上軍の追撃を受けて大きな損害を出しました。後に「砥石崩れ」と呼ばれる敗戦です。晴信は8月末に城へ迫り、9月9日から約20日間にわたって攻撃…
1567年11月10日(永禄10年10月10日)、大和で続いていた争いのさなか、東大寺の大仏殿が戦火によって焼失しました。後世「東大寺大仏殿の戦い」と呼ばれる出来事です。当時の大和では、三好三人衆と結んだ筒井順慶らと、松永久秀・三好義継らが…